電脳岬塾

財閥の世紀 第二回 三菱財閥

2012.1.30.月曜日

征韓論で下野した不平士族の目をそらすために断行された台湾出兵。

この軍事輸送を一手に引き受け、飛躍のチャンスを掴んだ岩崎弥太郎。

この幕末の風雲児が礎を築いた三菱財閥は、その後、日本が歩んだ帝国主義という時代の大きなうねりに乗って、

重化学工業の分野を核に一大コンツェルンを完成させた。

弥太郎、弥之助、久弥、小弥太の四代が振るった「剛腕の系譜」を、今余すところなく紹介しよう。

三菱財閥を築き上げた岩崎一族の剛腕

●今は昔の物語

三菱財閥の本拠地というと、今では誰もが東京駅の正面に位置する”丸の内”を思い浮かべるが、実はこの地が明治の中期まで荒れ野であったことを知る人は少ない。

明治維新が成って、江戸が東京に変わるころ、ビジネスの中心地は江戸時代から変わることなく栄えていた日本橋界隈だった。だからここには、老舗といわれる越後屋(現三越)、白木屋(現東急)、高島屋などのデパートが今でも軒を並べ、進出の早かった三井財閥はこの地を本拠地にしているのだ。いわば江戸時代からの一等地。

続いて発展したのが、日本橋とは目と鼻の先の海運橋を中心とする今の兜町周辺。明治の財界主導者である渋沢栄一の音頭で、同6年(1873年)に我が国最初の第一国立銀行が創設されると、10年代にかけて東京株式取引所、東京商法会議所(現東京商工会議所)、銀行集会所などをはじめとする商業活動の中枢施設が続々と建てられた。渋沢は自らも私邸をこの海運橋のたもとに設け、このビジネス街に君臨していたのだ。三菱も明治7年に東京進出を図るが、本社はそのはずれの南茅場町にあった。

では、当時、丸の内はどうなっていたのかというと、これが草ぼうぼうの野原。

幕末までこの地は江戸城の曲輪(丸の内)と呼ばれ、10万石以上の大大名の屋敷がずらりと並んでいた。だが、江戸城から将軍が去り、藩邸がなくなると、明治新政府はその跡地に、宮城防備のために陸軍の諸施設を作った。といっても、練兵場が主だから野原同然だったのである。

だが、宮城の前面が兵営というのも、近代国家を目指す日本としては体面上も美観上もよくないとの考えから、明治20年(1887)頃、これらを郊外へ移転させる計画が持ち上がった。しかし、移転させるにはその費用が足らない。そこで政府は競売にかけたが、そんな荒れ野を買う者はいない。しかも、払下げ金額は総額150万円(現在の貨幣価値で約150億円)の一括払いである。

矢田挿雲の名著「江戸から東京へ」は、その辺の模様をこう書いている。

「明治23年、政府はいよいよもてあまして、三井、渋沢、大倉(喜八郎・大倉財閥当主)、岩崎(弥之助・三菱二代目当主)らの富豪を招き、懇願的に払下げの相談におよんだところ、誰一人引受人がなく、結局、岩崎が貧乏くじを引いたつもりで、10万7030坪弱を130万円弱、すなわち坪10円強で払い下げた」

弥之助は、側近に「あんなところを買って、どうするのですか」と言われ、「なに、竹でも植えてトラでも飼うか」と大笑いしたという。

●「一丁ロンドン」の誕生

たしかに高い買い物だった。多くの財閥研究史を見ても、この三菱の”丸の内払い下げ”に関しては「政府に押し付けられた」との記述をしているが、果たしてそうであろうか。筆者はそうは思わない。

鉄道が最初に引かれたのは明治5年(1872年)の新橋-横浜間だが、そのおかげで当時の新橋・銀座の地価は坪30円~50円。鉄道建設は時代の趨勢で、明治16年に上野-熊谷間(現高崎線)、明治18年に赤羽-品川間(途中駅は板橋、新宿、渋谷、目黒)、明治22年には新宿-立川間(現中央線)と広がっている。こうなると、いきおい新橋から上野まで鉄道を通せ、というのは目に見えている。

三菱二代目の当主・弥之助は、とぼけて見せているが、丸の内がいずれ東京の中心地となることを予知していたはずだ。弥之助は「明治きっての政商」と言われた一代目当主・岩崎弥太郎の弟。いわば政界とは裏で通じている。その証拠に、東京の中心地となる東京駅創設の計画は、この年(明治23年)に出ているのだ。

もちろん他の三井、渋沢、大倉も知っていた。だが、もともと三井は買うつもりはなく、他の二人は買いたくとも一括して買うだけの資金がなかった。そこで弥之助は他の財閥と歩調を合わせて、政府の払下げ金を少しでもまけさせるために渋っていたのだ。その証拠に、弥之助が丸の内を買い取った後、三菱をライバル視していた渋沢はそれを悔しがり、「自分のグループと分配しなおそう」という妥協案を出している。

その弥之助の腹を決めさせたのは、当時、視察のために欧州を旅行中だった三菱の大番頭・荘田平五郎からの「カウベシ!」という電報だった。荘田はロンドンのビジネス街を見て圧倒されていた。

そのとき、日本からの新聞に丸の内練兵場が売りに出ているのを知り、即座に「その地にビジネス街をつくろう」との構想を抱いて打電したのである。

かくして明治25年(1892年)、三菱は一号館の基礎工事に着手。荒れ野だった兵営跡地は整然としたレンガ造りのオフィス街へと変貌し始めた。27年暮れに竣工した一号館には三菱本社、三菱銀行本店が入っている。

こうして、大正9年(1920年)には全区画の21号館が完成。丸の内は名実ともに日本経済の中心地となっていったのだ。人々は、ロンドンのロンパード街に倣った赤レンガ造りのこのビル街を、誰と言うとなく「一丁ロンドン」と名づけた。同時にそれは、三菱が三井と並ぶ大財閥に成長したことを意味していた。

ちなみに東京駅は、6年の歳月を費やして大正3年に完成。アムステルダム中央駅を模倣した辰野金吾設計によるものである。ついでながら、今も残る三菱財閥所有の有名な建築物は、関東閣(岩崎家高輪別邸)、湯島の最高裁判所司法研修所敷地内にある旧岩崎久弥邸(平成6年3月現在)、静嘉堂文庫(岩崎家玉川別邸)など。また、あまり知られていないが、六義園(元柳沢吉保の別邸)、清澄庭園(元紀伊国屋文左衛門の別邸)も岩崎家の所有であった。

財閥の世紀 第一回 三井財閥

2012.1.9.月曜日

【リード】

終戦後、悪の権化と見なされ、GHQによって徹底的に解体された日本の財閥。

果たして、戦前の日本に君臨した財閥とは何だったのか。どのような功罪を残したのか。

そして現在はどうなっているのか。

個々の財閥の歴史を振り返りながら、

日本における資本主義の本質を検証していく。


●いまは昔の物語

東京品川の御殿山にあるミャンマー大使館の場所が、その昔、誰れの邸宅があったかを知る人はいまやほとんどいないだろう。あるいはまた、東京上野の国立博物館の裏庭にある「応挙館」が、その昔、誰れの持ち物であったかを知る人もまれであろう。じつは、この二つはもともと一つの敷地にあり、その持ち主の名を益田孝という。

いうまでもなく三井物産の創業者であり、今日につづく三井グループの基礎を築いた人物である。三井合名会社の理事長を長く務め、明治中期から大正にかけて”財界の帝王”として、近代日本の資本主義を指導した人物である。いっぽう趣味の茶道の世界でも、千利休の再来といわれたほどの通人で、その号を鈍翁と称した。

益田が本宅を構えたこの御殿山の屋敷は総坪数一万二000坪。現在の都心では想像すらできない大邸宅だが、いまやその面影はところどころに残っている赤レンガの塀でしかしのぶことはできない。ミャンマー大使館はその一部に建っているにすぎない。

そして、その大邸宅の庭には、床の間、襖、壁画と余すところなく江戸時代の文人画家・円山応挙の絵筆で飾られた書院づくりの建物があり、それが「応挙館」と呼ばれるものであった。

たとえば「応挙館」と聞いて、何かを思い出すことができる人は、かなりの美術史通である。というのも、この応挙館では、かつてわが国、古美術界を揺るがせたショッキングな事件がおきていたのであった。

その事件とは「佐竹本三十六歌仙絵巻切断事件」といわれるもので、大正八年(1919)十二月二十日、王朝歌仙絵巻の最高傑作といわれた秋田佐竹藩秘蔵の三十六歌仙絵巻がバラバラに切り裂かれたのであった。

この絵は代々佐竹藩主の秘宝とされた国宝級のもの。だが時代が移り社会が変わると、さすがのお殿様も生活に追われ、やむなく売りに出されたのであった。そのときの総額が三十七万八〇〇〇円。現在の金額にして約四〇億円。当時の金持ちが一人で買えない値段ではなかったが、秘宝とされた名品だけに愛好家たちが殺到し、収拾がつかないありさまだった。そこで佐竹家当主は財界の大御所で美術品収集家としても著名であった、この益田孝に預けたのであった。

益田が関係筋に声をかけると、即座に三十七人の好事家たちが「応挙館」に集まった。

住友財閥当主の住友吉右衛門、野村財閥創設者の野村徳七、生糸王と呼ばれた原富太郎、三井合名理事長の団琢磨、大日本麦酒社長でビール王といわれた馬越恭平、三越社長の高橋義雄、パルプ王の藤原銀治郎、東芝社長の岩原謙三、三井合名理事の有賀長文...といったそうそうたる面々だった。もちろん主役は当家の主、益田孝。そのためかどちらかといえば”三井系人脈”が多いが、いずれの人物も当時の財界を代表するお歴々であった。彼らの多くはこの連載でも近代経済史を彩った人物として登場するであろうが、わたしが驚嘆するのは益田孝や彼ら財界人のことではない。

じつはさらにこの上にもっとすごい経済人がいたということである。それで本編の主人公三井家である。三井家から見ればいかに財界人のドンと呼ばれた益田にしても、彼は三井財閥傘下の三井物産の社長にすぎず、三井財閥の番頭の一人にすぎなかったのである。


●三井家当主の大富豪ぶり

では、財界のドンの上に君臨する三井家とはどれほどのものであったのか。