電脳岬塾

財閥の世紀 第一回 三井財閥

2012.1.9.月曜日

【リード】

終戦後、悪の権化と見なされ、GHQによって徹底的に解体された日本の財閥。

果たして、戦前の日本に君臨した財閥とは何だったのか。どのような功罪を残したのか。

そして現在はどうなっているのか。

個々の財閥の歴史を振り返りながら、

日本における資本主義の本質を検証していく。


●いまは昔の物語

東京品川の御殿山にあるミャンマー大使館の場所が、その昔、誰れの邸宅があったかを知る人はいまやほとんどいないだろう。あるいはまた、東京上野の国立博物館の裏庭にある「応挙館」が、その昔、誰れの持ち物であったかを知る人もまれであろう。じつは、この二つはもともと一つの敷地にあり、その持ち主の名を益田孝という。

いうまでもなく三井物産の創業者であり、今日につづく三井グループの基礎を築いた人物である。三井合名会社の理事長を長く務め、明治中期から大正にかけて”財界の帝王”として、近代日本の資本主義を指導した人物である。いっぽう趣味の茶道の世界でも、千利休の再来といわれたほどの通人で、その号を鈍翁と称した。

益田が本宅を構えたこの御殿山の屋敷は総坪数一万二000坪。現在の都心では想像すらできない大邸宅だが、いまやその面影はところどころに残っている赤レンガの塀でしかしのぶことはできない。ミャンマー大使館はその一部に建っているにすぎない。

そして、その大邸宅の庭には、床の間、襖、壁画と余すところなく江戸時代の文人画家・円山応挙の絵筆で飾られた書院づくりの建物があり、それが「応挙館」と呼ばれるものであった。

たとえば「応挙館」と聞いて、何かを思い出すことができる人は、かなりの美術史通である。というのも、この応挙館では、かつてわが国、古美術界を揺るがせたショッキングな事件がおきていたのであった。

その事件とは「佐竹本三十六歌仙絵巻切断事件」といわれるもので、大正八年(1919)十二月二十日、王朝歌仙絵巻の最高傑作といわれた秋田佐竹藩秘蔵の三十六歌仙絵巻がバラバラに切り裂かれたのであった。

この絵は代々佐竹藩主の秘宝とされた国宝級のもの。だが時代が移り社会が変わると、さすがのお殿様も生活に追われ、やむなく売りに出されたのであった。そのときの総額が三十七万八〇〇〇円。現在の金額にして約四〇億円。当時の金持ちが一人で買えない値段ではなかったが、秘宝とされた名品だけに愛好家たちが殺到し、収拾がつかないありさまだった。そこで佐竹家当主は財界の大御所で美術品収集家としても著名であった、この益田孝に預けたのであった。

益田が関係筋に声をかけると、即座に三十七人の好事家たちが「応挙館」に集まった。

住友財閥当主の住友吉右衛門、野村財閥創設者の野村徳七、生糸王と呼ばれた原富太郎、三井合名理事長の団琢磨、大日本麦酒社長でビール王といわれた馬越恭平、三越社長の高橋義雄、パルプ王の藤原銀治郎、東芝社長の岩原謙三、三井合名理事の有賀長文...といったそうそうたる面々だった。もちろん主役は当家の主、益田孝。そのためかどちらかといえば”三井系人脈”が多いが、いずれの人物も当時の財界を代表するお歴々であった。彼らの多くはこの連載でも近代経済史を彩った人物として登場するであろうが、わたしが驚嘆するのは益田孝や彼ら財界人のことではない。

じつはさらにこの上にもっとすごい経済人がいたということである。それで本編の主人公三井家である。三井家から見ればいかに財界人のドンと呼ばれた益田にしても、彼は三井財閥傘下の三井物産の社長にすぎず、三井財閥の番頭の一人にすぎなかったのである。


●三井家当主の大富豪ぶり

では、財界のドンの上に君臨する三井家とはどれほどのものであったのか。